SoNeO:Automata

機械学習、量子情報、サブカルチャーなどに興味がある大学生が読んだ本、論文、気になったことなどを雑にまとめていく。

「大きな物語」と「天気の子」

「天気の子」良かったです。

初回はTOHOシネマズ新宿のIMAXで見て、昨日は二回目を立川シネマシティ a studioで見てきました。TOHOシネマズ新宿は舞台がマッチしてて出た後余韻に浸れるし、a studioで流れるグランドエスケープのシーンは最高。どちらもオススメ。

 

ということで最近Twitterで「天気の子」の感想を呟いてるので、ひとまずブログにまとめておくことにしました。

ネタバレはあり。

 

映画を一回見終わって初めてfusetterに書いた感想が

天気の子、一言でまとめるとこの世界は狂ってるけど、キミとボクが選んだこのセカイは大丈夫って感じですかね……

https://fusetter.com/tw/w1hAX

でした。

もういろんなところでイヤになるくらいセカイ系セカイ系言われてますね。

 

でも書きます!(オタクなので)

(追記:「大きな物語」とかのポストモダンで語るのが痛いのはわかる。監督が痛いのを承知でやってのけたので、一人くらいこういう記事を書く人がいてもいいのではという心境)

 

まず映画の背景として語らないといけないのは、主人公の帆高が家出少年、陽菜と凪は家庭事情で貧困生活、須賀は小さい編プロで険しい仕事をしている、夏美はモラトリアムから抜けきれず就活に悩んでいる、というように、登場人物が皆ジリ貧なことでしょう(特に子どもたち)。

 

 

また、作中流れるSNSや帆高の入学写真を見ると、令和三年度・2021年、つまり東京五輪翌年であることがわかります。

 

2019年だと「まだ来年五輪がある!」という希望がありますが(ほんとに?)、五輪が終わってしまった後、みんなで目標にしていけるものがあるかというと微妙です。

 

以上から、この作品のテーマは、RADWIMPSによる主題歌「愛にできることはまだあるかい」にも

何も持たずに 生まれ堕ちた僕

諦めた者と 賢い者だけが 勝者の時代に どこで息を吸う

運命(サダメ)とはつまり サイコロの出た目?

何もない僕たちに なぜ夢を見させたか 終わりある人生に なぜ希望を持たせたか

と、あるように、高度経済成長時代が終わって「大きな物語」が無くなった今の日本でどう生きるか、だということが考えられます。

 

大きな物語」を喪失した現代日本は、生きる意味を外部からではなく自分で選び取らなければいけない時代、なんていうふうによく語られます。

 

「天気の子」はそういった「大きな物語」がなくなり、景気が良かった時代の大人から見ると相当落ち込んでいる・狂ってる時代の日本が舞台です。

 

 

そんな「大きな物語」喪失後を描く作品は「輪るピングドラム」などが有名だと思いますが、最近のアニメーションだとあまり扱われなくなってきていたテーマだと思います。暗くなりがちですしね。

顕著なのは「日常系」が人気になったように、そういう社会の状況を一旦忘れてイマココを楽しもう、というスタンスの流行だと思います。

 

そんな中、あえてこの「大きな物語」というテーマで、しかも「君の名は。」がヒットした直後で大注目されている新海監督が語ったことに価値があると思います。

 

 

ファイトクラブ」という作品があります。この映画の主人公は、会社の機密を知っているために一生解雇される心配がなく「完璧すぎる」人生だったため、不眠症になりました(良い映画なので観てくれ〜〜〜)。

 

しかし、今の日本を生きる人たちにとってみたら、そんなこと知ったこっちゃねぇと。大企業だっていつどうなるかわからない。そもそも正社員で雇ってくれない、というように、むしろ将来が不安で怯える日々を送っている人が多い。

 

これから日本の経済状況は悪くなるだろうし、人口減少が進んで2040年頃には明治時代と同じ位の水準になるなんて予想されています。

 

そんな不安ばかりの日本にあって、生きる意味を見つけるのは大変です。

 

その一つの解として監督が訴えたかったメッセージが、

 

「世界なんて、狂ったままでいいんだ!」

「(きみとぼくは)大丈夫」

 

なんだと思います(この「大丈夫」のラストがやっぱりファイトクラブなんだよな〜)。

 

 

今を生きる子どもたちにとっては、景気が良かった頃の日本なんて当然実感としては知らない。

だから「かわいそう」だなんて言われても実感がないし、それは大人や老人の勝手な先入観です。

 

 

聲の形」という映画では、優しくきらめく背景描写がなされています。その作品では、主人公が自分を嫌い、追い詰めているなか、せめて周りの世界は肯定的であってほしかったという意図から、そういう描写を施したと山田尚子監督が語っていました。

 

「天気の子」では、そういった優しい肯定的な背景描写と対照的に、頭痛持ちには辛いくらいに、終始降り続ける雨の描写がどんよりとしていました。

これは、彼らが住む世界が否定的に描かれていることを表しているんだと思います。

 

そんな世界で、主人公の帆高が光を追って辿り着いたのが陽菜です。

陽菜は、ビルの屋上に差し込んだ「光の水たまり」のような神社で強く願った結果、晴れ女になりました(「光の水たまり」いいですよね)。

 

 

そうして二人が出会うことで、彼らの周囲の世界は、明るくきらめいた、肯定的な世界になっていきます。

 

しかし、晴れ女パワーの代償によって、陽菜が人柱になってしまう。

 

大人であり、「社会・世間」代表とも言える須賀は、一人の犠牲で世界が良くなるなら皆それを選ぶだろう、と語っています。

 

しかし、

「神様、お願いです。これ以上僕たちに何も足さず、僕たちから何も引かないでください」

「放っておいてくれよ!」

「天気なんて、狂ったままでいいんだ!」

と覚悟し、自分にとって大事なものを選び取った帆高と、

「自分のために願って」

と帆高に告げられた陽菜の決断によって、東京は、五輪が終わった翌年からその三年後までずっと雨が降り続け、水没するわけです。

 

そうした帆高と陽菜の決断は、映画を観た子どもたちにとって、大きな希望になると思います。

 

監督は色んな媒体で「もっと叱られる作品にしたかった」という趣旨のことを語っています。

実際、この映画を見て

「なんでこんなラストにしたんだ」

「非道徳的だ(歌舞伎町の描写など含めて)」

といった否定的な意見がたくさん出てくることでしょう。

 

しかし、決断した帆高を見て、須賀は

「気にすんな」

「世界なんて元から狂ってるんだからよ」

と、優しく帆高を見守っています。

立花家のおばあさんも、帆高の決断を知ってか知らでか

「なんであんたが謝るんだい」

「(200年前の)元に戻るだけさ」

 と諭しています。

 

 

実際、これから日本は何十年か後には200年前と同じような人口になっていくでしょう。

 

でも、日本の全体的な状況なんて関係なく、子どもたちには子どもたちの幸せがあります。

 

空にいる陽菜を帆高が助けに行く場面で流れる「グランドエスケープ」では

怖くないわけない でも止まんない

ピンチの先回りしたって 僕らじゃしょうがない

僕らの恋が言う 声が言う

「行け」と言う

 と歌われています。 

 

東京を犠牲にした二人が再会した場面では

取るに足らない 小さな僕の 有り余る今の 大きな夢は

君の「大丈夫」になりたい 「大丈夫」になりたい

君を大丈夫にしたいんじゃない

君にとっての 「大丈夫」になりたい

 のように、二人の世界は「大丈夫」であることが祈られます。

 

最後

愛の歌も 歌われ尽くした

数多の映画で 語られ尽くした

そんな荒野に 生まれ落ちた僕、君 それでも

愛にできることはまだあるよ

僕にできることはまだあるよ 

 で終わる主題歌は、もちろん帆高や陽菜のための歌です。

 

しかし同時に、自らの大事なもののために、多少無謀とも言える決断をした子どもたちに対して、新海監督の同世代である須賀や、モラトリアムから抜けきれていないような夏美など、少し上の世代の者たちにとってに向けての

 

「愛にできることはまだあるよ。子どもたちを優しく見守ってあげよう」

 

というメッセージでもあるのでしょう。

  

 

自分は今大学4年で、大人でも子どもでもない微妙な時期です。

「賢い」決断をするよりも、自分の大切なものを選び取るために行動した子どもたちを、須賀のように優しく見守れる大人になりたいものです。

 

 

 

p.s.

同じ日に「ミュウツーの逆襲 EVOLUTION」も観たんですが、こっちは人間に造られたミュウツーが「なぜ生まれた なぜ造った!」と語って逆襲を始めますが、最後は

ミュウツー「我々は既に存在しているのだ」

サトシ「なんでここにいるんだっけ」

カスミ「いるんだからいるのよ」

サトシ「まぁいっか」

で終わるのが、生きることの無条件の肯定になっていて、好きです。

この二つの作品が全く同じ時期に出てきたことが面白いですね。

 

「天気の子」のテーマは少し古臭く、「ミュウツーの逆襲 EVOLUTION」はリメイクでありながらもこの時代に通用する。いや、今だからこそ語られるべき映画なのかもしれません。

 

 

(追記2:『ライ麦畑』が何度か映されたのを忘れてました。

須賀も10代のときに家出してきたこと、大恋愛をして奥さんと結ばれたこと、奥さんが亡くなった後も奥さんと娘を愛しつづけていること、帆高と須賀が似ていること、平泉成voiceの刑事に「今、泣いてますよ」と言われたシーンで指輪を触っていること、などなど考えると、彼も昔は主人公だったんだろうなと。

新海監督は「ああいう大人がいてほしかった」と須賀を設定しているそうなので、ある意味監督の理想像なのかもしれません。

ホールデンだった新海監督が、理想の大人像を須賀に仮託して、帆高というホールデンをキャッチさせた物語と取るのが一番素直な捉え方なのかなと思います。

そのあたりの描写を含めてコピーを考えると

 

「これは ホールデンである君と ホールデンだったあなただけが知っている 世界の秘密についての 物語だ」

 

という感じでしょうか)

 

あと、凪くん超かわいい!