SoNeO:Automata

機械学習、量子情報、サブカルチャーなどに興味がある大学生が読んだ本、論文、気になったことなどを雑にまとめていく。

人生とか物語とか相対主義とか

全くまとまっていないです.

雑記帳です.

 

最近とある脳科学の本を読んでいて,気になる一文が出てきて引っかかっています.

「表明された目的は、それぞれの隠れ層に基づいて編まれた物語であって、けっして理性に基づいた議論などではない。」

確信する脳---「知っている」とはどういうことか 
ロバート・A・バートン 
http://amzn.asia/2bXSdzp

 

物語と言ってしまうとなんでもそう思えるのでなんか狡いなぁと思いつつ,この一文から,

人間・この劇的なるもの (新潮文庫) 
福田 恆存 
http://amzn.asia/75DYfk3

という本の存在を思い出し,ざっと読みました.

なぜこの本を思い出したかというと,高3の頃に某現代文講師兼TVタレントの授業を受けていたんですが,その人が授業中で激推ししており,受験が終わった後に読もうと買い込んでいたわけです.

内容を1ツイートにまとめると

   

 という感じです. ちょっとまとめ過ぎですが,要は全体に属している自分という部分の役割を味わうことが重要,ということでしょうか.

 

そうは言っても,自分の役割なんてそうそう見つからないし信じられるものでもないとも思いモヤモヤしながら福田恆存の言葉を探してネットを彷徨っていると

「われわれがこしらへたものは、相対的であつて絶対ではないといふ原理をちやんと心得て、こいつを絶対化しようといふ努力」(対談『反近代につひて』)が必要である

「現在の私たちは単純な相対主義の泥沼のなかにゐる。なほ悪いことに、私たちはそれを泥沼とは感じてゐない。たいていのひとが相対主義で解決がつくとおもつてゐます。が、私は戦後の混乱のほとんどすべてが、この平板な相対主義の悪循環から生じてゐるとおもひます。私自身、ものを考へ、判断するばあひ、これにはまつたく手を焼いてをります。それについて詳しく書く余裕はありませんが、超自然の絶対者といふ観念のないところでは、どんな思想も主張も、たとへそれが全世界を救ふやうな看板をかかげてゐても、所詮はエゴイズムにすぎないといふことを自覚していただきたい」(「日本および日本人」)。

 

という言葉を見つけ,結局そうなのかい!ニヒリズムを意志で乗り越えろってことかい!

詳しく書く余裕はありませんが

 って詳しく書いてくれ!と思いました.

 

そこで次に見つけたのが中島岳志さんのpdfです.

https://www.soka.ac.jp/files/ja/20170519_143858.pdf

気になった文は

つまり、私というものの、絶対的な本質っていうのは、仏教においてはないとされる。縁という作用によって私が構成されている。

そうですね.

 ただこの木は、この場所に存在する。無心で存在している。そして、ここに存在すること によって、世界全体の、あるいは、宇宙全体の極めて重要な意味を担いながら、役割を担いながら存在している。世界はすべてが繫がり合い、そして、それぞれがそれぞれの場所において、役割を果たし合っている。そんな場所に、この木は存在しているのだ。だから、この木は、宇宙と一体化している。この木は、宇宙であり、宇宙はこの木に表れている。この木は、まさに、ミクロコスモスであり、宇宙全体のマクロコスモスは、このミクロの中に体現されている。だから、 この木は、宇宙であり、宇宙は、この木である。こんな関係性こそが、真の宗教である。 

「世界は全て繫がっている。有機体的な存在である」というのが、 彼の言ったことでした。そして、その有機体の中には、それぞれの場所が存在する。自分が生きていて意味のある場所がある。

一は全,全は一です.鋼の錬金術師にも出てきます.

つまり、ガンディーが言いたかったことは何かと言うと、 「真理の唯一性とともに、真理に至る道の複数性を認めよ」ということ

 西田幾多郎は、これを「多と一の絶対矛盾的自己同一」というふうに言いました。現象世界は多様なものとして現われます。しかし、それは、究極的に考えていくと、「一」なるものへと辿り着きます。「一」なるものは、「多」様なものとして現われ、「多」様なものは、「一」なるものへと還元される。この「多」と「一」というものは、絶対的に矛盾しているように見えながら、 実は一つのものです。 これは、西田だけが考えたものではありません。ガンディーは、山の例えで例え、そして、様々なアジアの宗教家たちが、このアジア的な認識論というものを考えてきました。牧口の 「天」という概念の中には、そういうような多一論が含まれています。それぞれの土地には、それぞれの道がある。そして、その道は「天」という普遍的真理へと接続していると考えたであろうと私は思います。そして、それぞれのトポスというものを、しっかり引き受け、その中で生き ていき、役割を果たしていくことによって、世界全体が一なるものとして、有機的に繫がってい く。

なるほど.多一論か〜.

価値相対主義に陥りがちな現代の風潮に対して上手くまとめた感じがします.

私が 20 歳の時に、大きな影響を受けた思想家に福田恆存という人がいます。私は、この人を通じて、トポスという観念に関して非常に接近していったんで すが、福田恆存は『人間・この劇的なるもの』という本を書いています。その本の中で彼はこういうふうに言っています。「個性などというものを信じてはいけない。もしそんなものがあるとすれば、それは自分が演じたい役割というものにすぎぬ。他は、一切生理的なものだ。右手が長いとか、腰の関節が発展 しているとか、鼻が効くとか、そういうことではない。また、ひとはよく自由について語る。そこでもひとびとはまちがっている。私たちが真に求めているものは、自由ではない。私たちが欲するのは、事が起こるべくして起こっているということだ。そして、そのなかに登場して一定の役割をつとめ、なさなければならぬことをしているという実感だ。なにをしてもよく、なんでもできる状態など、私たちは欲してはいない。ある役を演じなければならず、その役を投げれば他に支障が生じ、時間が停滞する―欲しいのは、そういう実感だ。」 私が、ここで生きていること。私がいないと何か停滞したり、うまくまわらないと思う、そう思える実感が、実は人間の本質を支えているんじゃないか。役割を引き受けること。何からも自 由になり、裸になっていくことよりも、トポスを引き受け、その中で役割を果たすことによって、 自分を見出す。それが、人間の本質なんじゃないかと、福田恆存は言っています。 このトポスを失わせてきた、このトポスを切り刻んできたのが、現代日本の社会なんじゃないかなと思う訳です。例えば、皆さんが直面する就職の問題。非正規雇用という問題があります。 非正規雇用や派遣労働というのがなぜ辛いのか。(中略)だから、私は派遣労働とか、非正規雇用の問題に対しては、徹底的に抗わなければならないと思いました。これはトポスを崩すからですね。職場に行ったら名前で呼ばれず、派遣さんというふうに呼ばれます。そんな人生が本当にトポスを引き受けた人生になるのか。

冒頭で挙げた本の言葉を,現代日本非正規雇用という問題に援用しています.

たしかに非正規雇用は問題ですが,だったら正規雇用されている人々はみんな問題がないかと言うとそうではなく,相対主義に陥って悶々としている人って多いんじゃないかなぁ.

 

ここまで調べて疲れて寝てしまい,さっき起きてせっかくなので残しておこうと思い今これを書いています.

 

結論は出ていないですが,結局何か超越的なもの(神だったり真理だったり自然だったり全体だったり天だったり)を信じるべき.不可知論だけど,何か超越的なものが存在することだけは知っている.全体が見えたと感じたらそれは錯覚,みたいな感じなんだろうか.

 

でも,生きていると不思議なパワーを感じる場面ってありませんか?僕は割とあります(やばい人っぽい).

結局,そういった「パワーを感じる場面」はこの宇宙における偶然/縁なんだと思いますが,その偶然に対して必然性を見出すことが「物語」なんじゃないかなぁ,と一応自分の結論らしいものを出してみる.

ちょっとロマンチックすぎますかね.